それは余所者でない者にとって、なにか強烈である可能性をもっています。
なにかクリティックである可能性をもっています。
余所者としてなにかをするときに、その場はこうかもしれないという仮定をしなければなりません。その対象がいかに小さくとも、いかに大きくとも。
その仮定の危険性を余所者を知らねばなりません。
余所者として、その場を見渡すだけで仮定はできません、
その場合の仮定は、たくさんの事から眼を背けてしまっているかもしれません。
あえて余所者であると言います。余所者としてあらわれて、余所者でなくなっていく時間の重要性についてふるまいます。
余所者でなくなっていったとき、内部にいれたとき、ようやく内部にいながらの外部として居ることができます。
内部にいながらの外部者として、その場に眼を向けたからこそ、見えてくる何か、その時に起きてくるなにかに余所者の限界線を越えた可能性を思うのです。
北澤
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